床山名 | 一等 床大 |
本名 | 大橋 太司 |
生年月日 | 1970年7月24日 |
出身地 | 新潟県三条市 |
新潟県三条市出身。
幼少期は信濃川のほとりで自然を遊び場とし、釣りに興じる日々を過ごした。
物心ついた頃から洋楽に夢中になり、特に当時珍しかったハードロックバンド「ディープ・パープル」に強い衝撃を受けた。
ギター購入資金を貯めて手に入れたものの、習うこともできず、演奏よりもっぱら聴くことに熱中する毎日であった。
中学生になると、同じ中学校の卒業生であるプロレスラー、ジャイアント馬場氏に影響を受け格闘技に興味を持ったが、結局スポーツを始めることなく、引き続き洋楽を楽しむ日々を送った。
中学卒業を控えた頃、進学よりも早く社会に出て一人前になりたいという思いから上京を考え始め、その選択肢の一つとして力士の道が浮上する。
1986年5月に両国で行われた新弟子検査を受験したが、わずかな身長不足で不合格となる。
それでも大相撲への興味は尽きず、相談したところ床山の道を勧められた。
力士を目指していた気持ちから裏方への転身には葛藤があったが、「それでも相撲に関わりたい」という強い気持ちが勝り、床山になることを決意した。
1986年11月場所、陸奥部屋の床山として正式に採用される。当時は部屋の合併もあり、複数の関取を含む多くの力士が所属する活気ある環境であった。
「早く一人前の床山になりたい」という一心であったが、当時の床山は先輩の技術を見て覚えるしかなかった。先輩床山の技を目に焼き付け、所属力士からも意見を聞きながら試行錯誤を重ねる日々を送った。
入門から13年目の1999年には三等床山に昇進。
成人して酒を覚え、今でも地方場所や巡業先で、その土地ならではの食事と共に一献傾けるのが至福のひとときであるという。
ある年の九州場所で、中洲の繁華街を歩いていると、偶然にも第54代横綱・北の富士氏と遭遇した。
実は新弟子検査の際に北の富士氏と顔を合わせていた床大は、酒の勢いも借りて
「私、北の富士さんに新弟子検査で落とされたんですよ!」
と話しかける。この一言がきっかけで意気投合し
「お前が力士になっていたら、横綱になっていたかもしれないな!オレの見立て違いだったな!」
と豪快に笑う北の富士氏と肩を組み、中洲の街を歩いたことは今でも良い思い出であると語る。
2007年に二等床山、2017年には一等床山へと昇進。陸奥部屋では、入門から大関昇進に至るまで、霧島(霧馬山)の成長を間近で見守り続けた。
床山という仕事は、一見すると毎日同じことの繰り返しに見えるかもしれない。しかし、床大は
「力士の背中をいつも見ているからこそ、気づくことがある」と語る。
肩幅も細身だった力士がいつの間にか大きく成長し、一人前になっていく姿。
勝負がかかった場所で勝ち越して意気揚々と帰ってくる姿。
そして、負け越して肩を落とす力士に、くだらない冗談を言いながら声をかけ、いつの間にか笑顔で立ち上がっていく姿を何度も見てきた。
毎日一人ひとり異なる髪質の髷を結うことで、力士の心身の変化に気が付くのも床山ならではである。
「オレなんかいい加減なやつなんで、馬鹿話するのにちょうどいいんだよ」
と話す床大の、人に気を遣わせない気さくな口調は、いつの間にか力士たちの相談役になることもしばしばである。
2024年に音羽山部屋へ移籍後も、共に移籍した霧島の大銀杏を結い続けている。
「これから先、霧島に次ぐ大銀杏を結う力士が増えたら忙しくなるな」
そう語りながら、床大は今日も、力士たちを後ろから支え続けている。