YUKI|世話人

 

しこ名歴 勇輝
最高番付 幕下二十枚目
本名 山崎 勇大
生年月日 1989年9月7日
出身地 宮崎県宮崎市
スポーツ歴 野球・サッカー
プロフィール

1989年、激動の平成時代のはじまりと同じ年に長崎県五島市で生まれる。
生後間もなく宮崎県宮崎市へと移り住む。
幼い頃から身体を動かすことが何よりも好きで、地元のサッカークラブでボールを追いかける日々を送る。
同時に始めた柔道も含め、スポーツは遊びの延長であり、あり余るエネルギーの発散場所だった。

 

 

小学校4年生の時、再び転機が訪れ兵庫県へ移住。
友人に誘われ、始めた野球に瞬く間に夢中になる。そこは「野球王国」と呼ばれるほど熱狂的な土地柄であり、周囲の応援が、いつか甲子園の大観衆の前でプレーしたいという強い憧れを育んだ。

 

多感な中学時代を迎えると、様々な誘惑に心が揺らぐこともあった。
しかし、幼少期の二度の転居経験が、いつの間にか、環境の変化を楽しめる楽観的な思考を身につけていた。
中学校では、学級委員長、学年部長、生徒会役員、体育祭応援団長を歴任するなど、周りの人に流されることなく自分自身をしっかりと保つ自立心を育んでいたと振り返る。
この頃から、人一倍強い責任感とリーダーシップを発揮するようになる。

 

中学2年生になると、再び故郷の宮崎県へと戻ることになる。
度重なる引っ越しに家族は苦労を重ねたが、自身は、新たな土地での出会いと野球に没頭することで、その変化に適応していった。
それに加えて温かく迎え入れてくれた宮崎の人々の存在も大きかったという。

 

3年生になり、進路を考えるようになる。
甲子園への夢を追いかけ、迷うことなく野球強豪校への進学を希望した。
しかし、入学の内定を得た矢先、父親から思いがけない言葉が告げられる。

 

「野球のためだけに高校に行くなど言語道断!自衛官になって厳しい修行をしてこい!」

 

言葉を失い、暗闇の中迷う日々を送る。

 

そんな時偶然耳にしたのは、宮崎で大相撲の陸奥部屋が合宿を行うという情報だった。
相撲好きの弟に誘われ、軽い気持ちで見学に訪れたその場所で、勇輝は初めてプロフェッショナルな力士たちの稽古を目の当たりにする。
土俵に響く激しいぶつかり合いの音、鍛え上げられた肉体の力強さ、そして何よりも、勝利に対する力士たちの真剣な眼差しは、将来への道が見えなくなっていた少年の魂を激しく揺さぶった。

 

まるで暗闇の中に一条の光が差し込んだかのように、心に新たな感情が芽生え始めていた。

 

家に帰り父親に「力士になる」と報告。
反対こそしなかったが
「俺は相撲を何十年と見てきた。そしてお前の親だからわかる。お前のその性格、骨格、身体能力から考えてもせいぜい万年序二段。いっても三段目一場所、二場所がいいところだろう」
と言われて、絶対に見返してやると気持ちを高ぶらせ上京した。

 

<師匠となる陸奥親方との会見。前列右が勇輝>

 

2005年3月、陸奥部屋入門し本名の勇大として初土俵に上がる。
当時、他の部屋との合併などがあり、関取が多く在籍する大所帯であった。同時にはじまったのは、想像をはるかに超える激しい稽古の日々
時には日に70番稽古をこなすが、3年経っても序ノ口から這い上がれずにいた。
不慣れな集団生活も重なり、勇輝は連日、疲労困憊の状態に陥り、父の言葉を思い出す。
「やっぱり親父の言う通りなんだな」
と落ち込んでいた。

 

そんな時、陸奥部屋の関取である豊桜関が、誰とも言葉を交わすことなく、毎晩ひとりで黙々とトレーニングに励む姿を目にする。
「朝の稽古で力尽きるまで鍛えているのに、この方はまだ、全身汗だくになってトレーニングを続けているのか」

 

自分が目指してきたプロフェッショナルの世界の高さと、その目標を達成するために努力を続けることの意義を目の当たりにした瞬間だった。
この出会いは、勇輝の相撲に対する姿勢を根本的に変えることになる。

 

 

2009年はじめて三段目に昇進する。
その後、何度か序二段と行き来をするが、2010年9月再度三段目昇進を機会に、しこ名を勇輝に改名した。

 

<右から2番目が勇輝>

 

そして2014年7月場所、ついに幕下へと昇進。
この頃から、毎朝の稽古に加え、毎夕稽古場やトレーニングジムに通って専門的な指導を受けながら、自身の肉体と技術に磨きをかける。
その努力は着実に実を結び、2019年からは幕下に定着するようになる。

 

 

幕下で初めて勝ち越した九州場所。場所後実家へ外旋すると、入門時に厳しい言葉をかけた父が勇輝を呼び止める。

 

「俺はお前の親だからよくわかる。お前が幕下で勝ち越したというのは、並の人間であれば関取になるのと同じぐらい尊い事だ。よくやったな!おめでとう!」

 

野球の試合で活躍しようが、テストで100点取ろうが褒めてくれなかった父から、思わぬ言葉をかけられた。
その後父は他界したが、最初で最後褒められたことで、相撲をやっていてはじめて”自分が成長した”と実感できた。

 

 

2022年2月、前任者の休場を機に、花相撲で弓取式と相撲甚句を担当することになる。
鍛え上げられた肉体と鋭い眼光は、歴代の弓取式を行う力士の中でも異彩を放ち観客を魅了した。
本場所でも引き続きその役目を務めることとなる。

 

この頃には、幕下力士として土俵に上がりながら、幕内で活躍する霧馬山の付き人、さらには相撲甚句を歌い、弓取式を務めるという、まさにひとりで四刀流の活躍を見せ、目まぐるしい毎日を送った。

 

しかし、2024年3月、所属する陸奥部屋の閉鎖を機会に、惜しまれながらも現役を引退。
若々しい肉体と、こつこつと努力を重ねる真摯な姿勢から「まだできるのではないか」と多くのファンがその決断を惜しんだのである。
現役引退と同時に、音羽山部屋の世話人として、日本相撲協会に採用される。

 

 

プライベートでも、とにかく好奇心が人一倍旺盛。
特に知らないことを見聞することや、食べたことないもの、美味しいと噂されるものには目がなく、現役時代も地方場所や巡業先で空いた時間があれば、知らない土地で散歩したり、地元の人でにぎわうお店に行って色んな人の話を聞くのが好きだったという。
さらに、ちゃんこで鍛えた料理の腕前も高く、昔からホームパーティーに憧れていて、友達を招いて手料理を振る舞っている。

 

第二の人生は、土俵で培った不屈の精神と鍛え上げられた肉体、さらには好奇心を武器に、音羽山部屋、そして相撲界全体の発展を力強く支えていく。